メモ

自分のためのノートを。 映画やドラマ、小説、ゲーム等についての感想、考察、その他諸々。

『ボーはおそれている』を観たはなし

 

観ましたよ。深夜の港北ニュータウンで。

 

もちろんネタバレあります。


自分はもともとホラー映画をあまり観ない。

学生時代に唯一、黒沢清の作品群を観ているくらいで、それもホラーが観たくて観ているというより、映画史的に重要らしいから観ておこうと思い、観ていた程度である(動機はつまらないが、作品は大変おもしろく鑑賞した)。


ホラー映画に対してはそんな感じのスタンスでいたのだが、ある時、「アリ・アスターというヤバい監督がいて、どうやら近々新作(ミッドサマー)を出すらしい」という話をTwitterだかなんだかで知り、鴨居のTOHOシネマズに駆け込んだのが密かなマイブームの始まりだった。


ミッドサマーを観て、ヘレディタリー/継承を観て、純粋に「めっちゃこわい!!」と思ったのだけど、これってすごいなとふと思ったんだよね。

当たり前のことだけど、画面の向こう側で何が起きようと、こちら側になにか実害があるわけではない(たとえば血を流すことはない)。

それがわかっている鑑賞者に対して、恐怖や不快感を喚起させるのって、そのために様々な技術的工夫が施されているんだろうなと思い、、。

人々を感動させる、気持ちよくさせる映画と同じように、そこにはクリエイティビティが詰め込まれているのだといまさらながら気付き、そういう視点から「こわい!でもおもしろい!」と感じてしまう脳内回路が出来上がってしまったわけです。


ということで前置き長く、今作ですが、

観ていて最初に「あれ、コメディ?」と感じた。

特にボウ(字幕に倣う)が惹かれる直前、全裸でおじさんと揉み合って、わーー!とアパートメントの外に出る。警察に駆け寄るが誤解され、わーー!と逃げる。逃げた先にはシリアルキラーがいて、再度わーー!と逃げたらドン!と惹かれる。

とにかくドタバタしていてミスタービーンでも観てるような気分になっていた。


なお、終盤に明らかになるが、このミスタービーンのような(ミスタービーンは細部まで台本でコントロールされている、らしい)お芝居的ドタバタ展開も事前に仕込まれていた可能性があり、なるほど納得の違和感だったわけである。

このあたりはトゥルーマン・ショーに似た感じもした。


上記以外にもたとえば、劇内劇の扱いがマルホランドドライブだなと思ったりした。

劇内劇で、メタ的に映画それ自体に言及するところがそっくり。当然意識しているんだろう。

場面が飛んで主人公(観客)が置いていかれるのは、ファーザー(アンソニー・ホプキンスの)の時の感覚と同じ。


全体的には、ヘレディタリー/継承との共通しているモチーフが多くあった。

過干渉・ヒステリックな母親、屋根裏の秘密、天井に張りつく人間、映画上の最後の審判?を見守る聴衆、などなど。


また、エイレンとの騎乗位→腹上死からの、あの「間」は、ヘレディタリー/継承での妹死亡のトラウマを十分に思い出させてくれた。

心なしか、劇場の空気もここでギュッと引き締まった感じがあったな。


毒親モノという意味では、昨年に押見修造の『血の轍』が完結したわけだが、それとは真逆の結論を迎えたような感じですね。


これも終盤明示されるが、本作は発達障害やその他精神病を抱えているボウから観た主観的なイメージが現実世界と区別なく描かれているが、野暮だけれど、実際何が起きていたのかを知りたいという気持ちがある。

特に中盤の外科医の家では、なにがあったのか、よくわからない。

このあたりは考察記事でも読んでみよう、、


全体を通しておもしろく観ていたが、コメディとしては複雑で、ホラーとしては単純、という感じだろうか。

いや、適当に書いてしまっている気もするな。

次回作は、もう少しホラーに寄っているといいなー。

幻想水滸伝の思い出

幻想水滸伝」シリーズを手がけられた村山吉隆氏が、2024年2月6日に亡くなった。

ご冥福をお祈りします。

 

「藪の中」(黒澤明の映画では「羅生門」)に代表されるような、「人間はひとつの出来事からひとつの真実を導くことができない」というテーマを私が初めて体験したのが、「幻想水滸伝3」だった。

 

物語序盤、ある一族の族長が暗殺される事件が発生するのだが、プレイヤーが最初に選択する陣営によって、その出来事の描写が大きく変わる。

加害側(とされる)陣営の視点では、族長暗殺の描写はなく、突然あらぬ疑いをかけられるように感じるし、

被害側陣営の視点では、実際に敵対勢力の主要人物が自陣に攻め入ってくる防衛戦が展開される、、、。

このエピソードの結論としては、第三勢力による介入によって両者の紛争を仕組まれていたという話になるのだが、このような、さまざまな視点を(キャラクターを)用意して、群像劇を展開することにかけて、「幻想水滸伝」シリーズは同世代のゲームの中で一つ抜きん出ていたのではないかと思う。

 

また、架空の歴史描写、時間の流れについても、よく作り込まれていたように思う。

 

幻想水滸伝では1〜5までナンバリングタイトルがリリースされているが、すべて同じ時空を共有している。

それぞれ、主となるエリアや時代が違うのだが、ゆるやかにつながりがあり、1で出てきたキャラクターが2や3に出てくるなどがある。

また、作品を超えて伏線が回収されることも多く、3のルックの描写や、4のテッドの登場に涙したシリーズファンも多いのではないだろうか。

 

※余談だが、2023年末から現在にかけて、私が最もはまり込んでいるのが「葬送のフリーレン」だ。時間軸の扱いが巧みで、長寿であるエルフのフリーレンを軸に、①見習いの弟子時代、②勇者一行として旅する時代を、③師匠として旅する現在から、ちょこちょこと思い出すような形で描写される。

 

幻想水滸伝シリーズは、横山光輝「三国志」を愛し、最高のドラマシリーズとして「ゲーム・オブ・スローンズ」を挙げるような私の好みの形成にたいへん大きな影響を与えてくれたんだろうなと思う。

 

お疲れ様でした。

ゆっくりお休みください。

 

怪物をみて、スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバースをみた

 


「子育ては謎だらけだ」

マルチバースに飛び去る娘を見送り、グウェンの父はつぶやいた、、、


この1週間で、是枝監督の『怪物』と、第91回アカデミー賞長編アニメ映画賞を受賞したスパイダーバースの続編である『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を立て続けにみた。


「私のぼうやが大人になるのをみるのが少し寂しい」というマイルズ・モラレスの母親の台詞は、きっと大半の親が思うことなのだろう。

しかし、マイルズはすでに高校生、両親は寂しさを抱きつつも、背中を押す必要性を自覚している。自覚しているというよりは、ほんとうは背中を押したい、だけど心配。というところか。

それは現実には、グウェンの父親のつぶやきと重なるように、もはや理解のできない「他者」である我が子をただ見守る、という態度が求められるのだろう。


他方で『怪物』では、もっと早い段階で子どもが「他者」であるということを描いている。

小学生の我が子が、もはや理解の及ばない「他者」であることを理解できない親(清高:依里の父親)や、自覚できない親(早織:湊の母親)は、愛しているはずの我が子を追い詰めてしまう。


どうだろう。小学生の子どもが他者であるということを自覚し尊重するということは、言葉で言う以上に実践が難しいんじゃないか、と思う。


自分の長男は今年で5歳、あと2年で小学生だ。

まだまだ「私のかわいいぼうや」で、あと2年でどうにかなるとは思えない。


とはいえ、もう様々なこだわりはあるし、趣味嗜好も出てきている。

親にとっては些細なことでも、子どもがひどく傷ついてしまうということは往々にしてある(自分もやってしまう)し、

親の知らないうちに、何かよくわからない行動をしていることも多々ある。


早織は湊の変化に細やかに反応している。

突然髪を切ったり、片方のスニーカーがなくなっていたり、水筒に泥?が入っていたり、不穏な言葉(豚の脳とか)を言い出したりすることに違和感を持ち、学校に相談に行く等速やかに対処している。

そこでは、まったく手応えのない学校の対応に怒りを覚え奔走する。

また、半ば大袈裟に「親身な母」を演じ、湊が悩みを打ち明けられるように努力していることがわかる。


そうしたことが、「実はものすごい勢いでボタンを掛け違えてしまっていた」ということが、物語の進行とともに明かされていくのが本作の見どころの一つなのだが、見ていて大変苦しかった。


これ、実際に湊の親の立場に置かれたとしたら、適切な対処ができる自信がまったくない。


子どもの口から、担任にいじめられているなんて聞いてしまったらもう他の可能性は考えられないでしょう。


だからもっと手前で、子どもがそういう話を自然と打ち明けられる環境をつくらなきゃならないんだろうね。

家庭のレベルというよりは、社会のレベルで。


いまはそういう社会じゃない、だから親が気づくしかない、でも気づきようがない。

そういうどうしようもなさの中で、子ども同士は心を通わせ、親の元を去っていく。


美しいが苦しく、救われるようで絶望でもあり、宙ぶらりんな気持ちにさせられる映画だ。


願わくば我が子は、危機を切り抜け、無事に世に飛び立って欲しい。

スパイダーマンでもマルチバースでもなんでもいいからさ。いつの日か背中を押させてくれ。

 

あ、あと、言うまでもないが

アクロス・ザ・スパイダーバースは映像音楽脚本すべてが神の領域にあるので、劇場で観るのをおすすめする。

ジョークも刺さるものが多かったなあ。

Together

久しぶりにはてなブログを開いた。

あるひとつのブログ(コンテンツの趣味がばっちり合う)は読んでいるのだが、自分のページを開くのは3年ぶりのようだ。

 

最後のページはプラープダー・ユンのエッセイについて。

あれから3年。

長男は5歳に、次男は2歳になろうとしている。

 

長男は保育園のおともだちの影響もあり、ポケモンにどハマりしている。

ただ、サブスクリプションでたまたま開いたのがそれだったのかわからないが、この時代に、ダイアモンド・パールのアニメを観ている。

 

アニメに出てくるポケモンたちをたいへん気に入っており、家にあるぬいぐるみ一つひとつにポケモンの名前をつけて遊んでいる(たとえばペンギンのぬいぐるみにポッチャマ、とか)。

 

サブスクリプションは視聴中の話が終わると自動的に次の話に移行するため、何度も主題歌がリピートされる(これはこれで、だらだら観せていいのかという問題はある。最近はある程度の制御をしている)。

 

そしてその主題歌、

あきよしふみえ「Together」がたいへんよい。

 

ポケモンの持つ、冒険へのわくわく感や明るく前向きな世界観が、平成感溢れるサウンドに乗せて身に染みる。

1フレーズ目「とっておき 不屈の心もって」の後に流れるバグパイプのアクセントが筆者随一のお気に入り箇所である。

 

日々の殺伐とした仕事を生き抜き、休日に摂取する好みのコンテンツはゲーム・オブ・スローンズや三体、サイバーパンク・エッジランナーズのような過酷なストーリー。

このような自分に、Togetherはたいへん眩しい。

Togetherの眩しさは、そのまま息子の持つ心の明るさやまっすぐさの眩しさでもある。

ポケモンを真剣に見つめる息子に、自分がかつて持っていて今は失ってしまったものを見ることができる。

 

こういう時に、本当に幸せだなと感じる。

そしてできれば、できるかぎり、その「真剣なまなざし」を失わないでほしいと思う。

そのためなら、父はなんでもするぞ、という気持ちになる。

 

 

Apple Musicで通勤中毎日聴いているから、気づいたら累計再生回数TOP3入り。

よかったら聴いてみてください。

 

 

 

メモ 本田晃子「亡霊建築論 第6回 ガラスのユートピアとその亡霊」『ゲンロン11.5』

アレクサンドル・ブロツキー、イリヤ・ウトキン《ガラスの塔》1984年 セントラル硝子コンペ入選作品

 

この海辺の塔が、いつ、なぜ、誰によって建設されたのか、そしてそれがいつ、なぜ崩れ落ちたのか、知る者はいない。しかしそれは倒壊して、無数のガラスの破片となり、透明な山脈、死んだ街、あるいは先史時代に絶滅した恐竜の化石のように横たわっている。その基礎は浜辺に置かれ、その頂は大陸の奥深くへと消えている。周辺に暮らす人びとは、そこに再び新しい街や塔を築き、その高さを競っており、この破壊されたガラスの塔の存在に気づく者も、その頂が雲に隠れるほどであった時代を思い出す者もいない…。

はるかな高みから眺めた時のみ、太陽の光に輝きながら横たわっているであろうそれに、気づくことができるのだ。 p66-67