『エディントンへようこそ』をみてしまいまして
こんなコロナ・ポリティカル・ホラーは観たことない!(そんなものはない!)
テンションがおかしくなるほどに頭おかしい映画だった!(めっちゃ褒めてる!)
ホラーはホラーでも、人間の怖さ、政治の怖さ、超越的なものの怖さ、ごった煮すぎるでしょう!!
それをこんな完成度で達成できるんかい!
序盤は、
あー、コロナ禍独特の雰囲気や文化ってあったよなー、アメリカでも同じ感じだったんだなーという「ふつうの」映画として観れて、
ホアキン・フェニックス、ペドロ・パスカル、エマ・ストーンなどの堅実な演技を堪能していたのに、、
アリ・アスターは、急激な場面転換で客をすっと黙らせて一気に引きずり込むのがうますぎる!
ヘレディタリー/継承では妹の事故シーン、ミッドサマーでは長の投身自殺、ボーはおそれているではセックス中の突然死、、
絶対くるのはわかってはいるのに、毎度どん底に落とされる。
そのシーンが来るまで不穏が積み上がっていくあの感じ、たまらんのよ。これは中毒に近いな。
一生ついていきます!
はやく次の供給ください!!
※以下ネタバレ込みで
そもそも、ホラーとは何なのか。
おばけ? グロ? 人の黒い感情?
ここではひとまず、「加害の予感」だと定義してみたい。
おばけがホラーになるのは、超越的な存在から加害される予感があるから。
グロがホラーになるのは、身体を損壊される予感があるから。
人の黒い気持ちがホラーになるのは、人に傷つけられる予感があるから。
『エディントンにようこそ』は、
フェティシズムに細分化されがちな「ホラー」を、再びひとつに束ね直した作品だった。
いわば、フルスペック・ホラー。
このレベルの「全部入り」を、みなさんは観たことがあるだろうか。
自分はある。
アリ・アスターを観た後に残る感覚は、ずっと何かに似ていると思っていたが、今回ようやく腑に落ちた。
彼もまた、人間的な怖さと超越的な怖さを、同時に成立させていた。
『ツイン・ピークス』しかり、『マルホランド・ドライブ』しかり。
日常のあらゆるものが、不穏へとつながっていく感覚。
『エディントンにようこそ』は、
2020年、コロナ禍のエディントンで暮らす保安官・ジョーの日常から始まる。
過去にトラウマを抱え、治療中の妻を支えながら、
マスクをしていない住民同士のトラブルを仲裁して回る、そんな日々。
世界では大変なことが起きているが、「ここではない」。
それが彼の基本的な態度だ。
コロナはエディントンにはない。
警察官による黒人への暴行も、エディントンにはない。
……しかし実際には、後の破局へとつながるドス黒い悪意が、確実に街に充満していく。
ある意味で、エディントンという「場所」そのものが主人公だと言ってもいい。
それはアメリカの田舎町のひとつの描写でもあるし、
『ツイン・ピークス』がツイン・ピークスという街の物語だったのと同じ構造でもある。
ドラマなら『ブレイキング・バッド』『ベター・コール・ソウル』のアルバカーキ。
(普通の人だったはずの男が追い詰められていく感じ、ジョー・クロスに似ていない?)
ゲームなら『ライフ・イズ・ストレンジ』のアルカディア・ベイ。
※この点はssayuさんのブログがとても詳しい。
Life Is Strange エピソード1を振り返って読み解く - なぜ面白いのか
そしてエディントンでは、「加害」の矢印が三次元的に交錯している。
たとえば妻のルーは、過去にある男――実父なのか、市長なのかは定かでない――から受けた加害によって、深い性的トラウマを抱えている。
現在進行形では、母親からのいわゆる「毒親」的な加害を受け、
さらに夫ジョーからは、最悪の形でそのトラウマを暴露されるというアウティングまで受ける。
加害者である市長、母親、ジョーはそれぞれ被害者である。
市長はジョーに殺されるし、母親とジョーはルーから最も望まない形であろう仕返しを受ける。
この街では、誰もが被害者であり、同時に加害者でもある。
被害と加害の反転は、BLMの行進を主導する学生のサラによっても表現される。
暴徒化するデモ集団の醜悪さは中盤の名シーンだろう。
サラはデモ行動で白人至上主義の暴力的解決を訴えたことをジョーに逆手に取られ、まさに暴力行為に加担した罪で市長殺しの疑いをかけられるのである。
そして、人々の鬱屈、ドス黒い気持ちがエディントンの許容を超えようとするそのとき、悪魔が放たれるのである、、(極めて具体的に、プライベートジェットに乗り、やってくるのである)。
※最初はFBIが来たのかと思った。
人間の形を纏った悪魔は『マルホランド・ドライブ』におけるカウボーイをイメージすればよいのか、、
ここでははっきりとジョーの命を狙う。
ジョーもメタ的に言及していたように、この破滅の物語を始めてしまったジョーを、悪魔は狙う。
そして最終盤、ここで非常に難しい。
悪魔の襲撃によって脳天をナイフで貫かれたジョーが最後に見る光景で、救急隊員が言及するのは「脳天を貫く裂傷」ではなくまさかの「40度を超える熱」。
実はジョーは途中、コロナの検査を受けており、ゴホゴホと咳込み発症している描写がある。
ジョーが体験していた物語は現実で起きたことだったのか、あるいはコロナを発症したことによる妄想の逃走劇だったのか、、
はっきりしないままラストシーンにつながるが、いずれにせよジョーはほぼ寝たきりの状態になっており、義母と同じベットで寝る(しかも隣で若いと男とセックスしている)ことになっている描写で幕を閉じるのである。
エンディングのエディントンは砂漠に浮かぶ島宇宙のようだったが、あれはどういう意味だったのだろう。
まったく咀嚼ができていないがとりあえず雑感を書いてみた。
いずれちゃんと整理はしたい。
ぼちぼち
私生活がようやく落ち着いてきた。
長いスパンの中で、言ってみれば久しぶりにソファにどかりと座ることができたような感覚である。
ということで、少しずつちゃんと記事を書きたいなと思っている。
もちろん頓挫する可能性はあるけれど、なにかに触れた感動を生成AIに放り込むよりはマシだろう。
なお、今年(個人的な)大盛り上がりを見せたのは主に以下の作品。
※発表年ではなく、自分が今年触れた作品です。
【小説】
【漫画】
【ゲーム】
Expedition 33
キングダムカム・デリバランスⅡ
Crusader Kings III
【映画・アニメ】
劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師
機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning
名探偵コナン 隻眼の残像
教皇選挙
ロボット・ドリームズ
【演劇】
ままごと『わが星』
よろしくお願いします。
『ワン・バトル・アフター・アナザー』をみて
「子持ちの気持ちになれクソッタレ!」
大学院でモラトリアムを堪能していた頃、横浜のとある法律事務所でアルバイトをしていた。
所長と、正規の事務員がひとり、アルバイトの自分という陣容で独立したてのこじんまりした事務所だったが、ある時若手の弁護士を雇うことになった。
顔合わせの飲み会でどこに住むかという話題が出たときに、いくつかの候補地の中で「鴨居はちょっとダサい」という若手に所長は「家族を持つとダサくなるんだよ」と返していて、そのことがすごく印象に残っている。
「ボブ」は革命家のような精神を暗号の記憶とともに失くし、「クリスマス会」のような地位や金もなく、ロックジョー大佐のような肉体も持っていない。
が、ダサい生活の蓄積、乱雑な家には家族としての思い出が詰まっている。
革命家の、形式的な暗号のやり取りなんてどうでもいい!
着の身着の儘、有り合わせの連続で娘の元までたどり着いたこの感動。
とにかく目の前のことに全力で、なりふり構わず子のためにだけ進みつづけて、気がついたら終わりにたどり着いていること。
子育ても同じなんじゃないか。
ようやく会えた娘からの暗号の問いかけに、暗号では返さないボブ。
そんなのもう関係ないんだよというやさしい眼差し。
あの3時間のストーリーには、描写されなかった16年間の子育てが詰まっているようにも思う。
そして「家族」とは決して血縁関係のことでない。
父娘の間では、そんなものにはいちいち言及しない(描写しない)ことの潔さ、、、
ラスト、母の後を追わないでほしいなって率直に思ってしまったけど、それはボブが捨てることのできた支配欲(妻に指摘されてたよね)に、自分が囚われてるのかもしれない。
『メガロポリス』(フランシス・フォード・コッポラ)を観て
「これは寓話である」
冒頭に提示されるキャプション。
そう、この作品は明確に寓話に満ちていた。
過剰な演出も、演劇調なセリフも、たとえ話の装置なのである。
本作はフランシス・フォード・コッポラ監督の自主制作映画のようなものであり、興行的にも大変苦戦していると言われている。
本国アメリカに限らず、日本でも上映館の少なさなどから推して知るべしという状況。
内容についても様々な酷評が散見され、筆者も観ていて「気持ちがいい映画」とは思わなかった。
が、とはいえ、寓話として受け止める余地のある部分はそこそこあったじゃないかとも思う。
現実世界では少し前に「美しい連邦公共建築(Beautiful Federal Civic Architecture)という大統領令が発出されたばかりで、実際に、古典主義が復古されている。
リゾート化したガザに黄金の大統領像が設置されるイメージ動画が公開されたことも記憶に新しい。
過剰に演出された違和感はこうした現実の戯画化としてみるべきではないか。
監督の目には現実世界こそがニューローマのような世界に見えているのではないか。
また、予告画像や「メガロポリス」というタイトルからSFとして期待していた層もいると思う(自分もそう)。
最終的には(少なくとも一部分は)実現された未来都市は、作中ではあくまでニューローマ都市計画所管部局長の計画「構想」であって、描かれるのは未来都市を実現するための泥臭い政治闘争。
改革派、保守派、ポピュリストなど、ローマ帝国実在の人物の名を借りていろいろ出てくる。
性が積極的に絡んでくるのも古今東西の政治闘争をみるにうんうんという感じ。
脱線
流線型の都市計画であることもあり、思い返すのは新国立競技場のあれこれ。コンペで選ばれたザハ・ハディド案は改変・撤回され、より保守的な代案が施工された。
ザハの設計事務所は日建設計等とともにJVを組み様々な「調整」をこなしていたが白紙撤回に追い込まれた。ザハはその数年後に逝去した。
終盤、物語は急展開を迎える。
ポピュリストは市民に敗れ、市長(キケロ)や銀行家(クラッスス)はカエサルの支援にまわり、ニューローマのメガロポリスへの道が開かれる。
道、まさにメガロポリスの描写で強調されたのメガロンで作られた道だった。
設計自由度の高い「動く歩道」のような、ある方向へ自動で進む道。
市長が指摘したようにニューローマへ続く道がユートピアなのかディストピアなのかはわからないが、映画は新しい命(保守と改革の子)にフォーカスして幕切れとなり、人類讃美のことばで締められた。
ゴッドファーザー3部作では、ある時代のある共同体の始まりから終わり、そして生まれかわりまでの「一生」を描き、今から観ると20世紀のひとつの風景をまるごとを切り取ったような素晴らしい作品群になっているが、
はたして今作は、数十年後に視聴者にどう届くのか、そこが一番の関心である。
村上春樹「武蔵境のありくい」を読んで
ざっくりと、概要
足立区に住む主人公、夏帆は、夢とも現実ともつかぬ場でありくいの夫婦に出会い、武蔵境へ引っ越すよう促される。それは夏帆のトラウマ(モーターサイクルの男)と関係があるようにも見える。
転居後の一軒家では、軒下に上記ありくいの夫婦が住んでいて、故郷ブラジルで食べたシロアリを食べるために、駅前商店街のとぎやでシロアリを受け取るよう強く依頼される。どうやらありくいの夫の健康に関わるようだ。
夏帆は内心嫌がりながらも、夫婦の依頼を受ける。
二度目の受け取りの際に、とぎやの店主がありくい夫婦がブラジルから逃避する原因となったジャガーであることが判明し、夏帆はその店主を刺殺する(させられる)。
以降、本当の夢の場で、ありくいの夫婦がブラジルで幸せに暮らしていることを夢見るが、現実世界で何があったのかは判然としないまま、日常生活を過ごしている。
読んでみて
「文明の果つるところ」
「慈悲も偏見も予断もなく刺し殺すのです」
グッとくるキーセンテンスがなんどか出てくる。
現実と夢のはざまでのできごと、妙に理知的な人外のキャラクターなど、村上春樹氏の創作で繰り返されるモチーフがしっかりと出てくる。
ここ最近ではそのようなモチーフについて、割と丁寧な(説明的な)描写がみられるような気がするが気のせいだろうか。
まちを歩く女子高生がカバンにキャラクターをたくさんぶら下げているなど、現実世界をしっかりキャッチアップしているような描写もある。
また、ないわけではないかもしれないが、女性が主人公ということが本作の大きな特徴だろう。
以前の『一人称単数』では、村上作品の主人公達が「通り過ぎてきた(あるいは通り過ぎられてきた)」であろう無数の女性達からの声が、ひとりの女性から氏の自己言及的に述べられていたことを思い出すが、今回の夏帆はそのようは強い言葉を持っておらず、また精算できているわけでもなく、「モーターサイクルの男」として現在進行形の問題として抱えている。
ありくいの夫婦は、夏帆を、おそらく夏帆をかつて傷つけたであろう「モーターサイクルの男」から遠ざけるための存在としても描かれる(ありくいの夫はモーターサイクルのエンジン音を遠距離から聴くことができる)。
試みとしての短編?(中編?)なのだろうか、長編としても読んでみたいような内容だった。
性別に限らず人は孤独を抱えていて、ときには虚構を用いて現実を解釈したり受け入れたりして日常をやりすごしていく。
現実世界では何も起きていないように見えるかもしれないが、私と世界の関係ではたしかに「文明の果つるところ武蔵境で、慈悲も偏見も予断もなく刺し殺」したのだ(余談はあったかな?)。
まさに村上春樹作品だと思ったし、この作品は同氏にある種の偏見を持つ方々にもいずれは届くのかなと思う。
『ボーはおそれている』を観たはなし
観ましたよ。深夜の港北ニュータウンで。
もちろんネタバレあります。
自分はもともとホラー映画をあまり観ない。
学生時代に唯一、黒沢清の作品群を観ているくらいで、それもホラーが観たくて観ているというより、映画史的に重要らしいから観ておこうと思い、観ていた程度である(動機はつまらないが、作品は大変おもしろく鑑賞した)。
ホラー映画に対してはそんな感じのスタンスでいたのだが、ある時、「アリ・アスターというヤバい監督がいて、どうやら近々新作(ミッドサマー)を出すらしい」という話をTwitterだかなんだかで知り、鴨居のTOHOシネマズに駆け込んだのが密かなマイブームの始まりだった。
ミッドサマーを観て、ヘレディタリー/継承を観て、純粋に「めっちゃこわい!!」と思ったのだけど、これってすごいなとふと思ったんだよね。
当たり前のことだけど、画面の向こう側で何が起きようと、こちら側になにか実害があるわけではない(たとえば血を流すことはない)。
それがわかっている鑑賞者に対して、恐怖や不快感を喚起させるのって、そのために様々な技術的工夫が施されているんだろうなと思い、、。
人々を感動させる、気持ちよくさせる映画と同じように、そこにはクリエイティビティが詰め込まれているのだといまさらながら気付き、そういう視点から「こわい!でもおもしろい!」と感じてしまう脳内回路が出来上がってしまったわけです。
ということで前置き長く、今作ですが、
観ていて最初に「あれ、コメディ?」と感じた。
特にボウ(字幕に倣う)が惹かれる直前、全裸でおじさんと揉み合って、わーー!とアパートメントの外に出る。警察に駆け寄るが誤解され、わーー!と逃げる。逃げた先にはシリアルキラーがいて、再度わーー!と逃げたらドン!と惹かれる。
とにかくドタバタしていてミスタービーンでも観てるような気分になっていた。
なお、終盤に明らかになるが、このミスタービーンのような(ミスタービーンは細部まで台本でコントロールされている、らしい)お芝居的ドタバタ展開も事前に仕込まれていた可能性があり、なるほど納得の違和感だったわけである。
このあたりはトゥルーマン・ショーに似た感じもした。
上記以外にもたとえば、劇内劇の扱いがマルホランドドライブだなと思ったりした。
劇内劇で、メタ的に映画それ自体に言及するところがそっくり。当然意識しているんだろう。
場面が飛んで主人公(観客)が置いていかれるのは、ファーザー(アンソニー・ホプキンスの)の時の感覚と同じ。
全体的には、ヘレディタリー/継承との共通しているモチーフが多くあった。
過干渉・ヒステリックな母親、屋根裏の秘密、天井に張りつく人間、映画上の最後の審判?を見守る聴衆、などなど。
また、エイレンとの騎乗位→腹上死からの、あの「間」は、ヘレディタリー/継承での妹死亡のトラウマを十分に思い出させてくれた。
心なしか、劇場の空気もここでギュッと引き締まった感じがあったな。
毒親モノという意味では、昨年に押見修造の『血の轍』が完結したわけだが、それとは真逆の結論を迎えたような感じですね。
これも終盤明示されるが、本作は発達障害やその他精神病を抱えているボウから観た主観的なイメージが現実世界と区別なく描かれているが、野暮だけれど、実際何が起きていたのかを知りたいという気持ちがある。
特に中盤の外科医の家では、なにがあったのか、よくわからない。
このあたりは考察記事でも読んでみよう、、
全体を通しておもしろく観ていたが、コメディとしては複雑で、ホラーとしては単純、という感じだろうか。
いや、適当に書いてしまっている気もするな。
次回作は、もう少しホラーに寄っているといいなー。
幻想水滸伝の思い出
「幻想水滸伝」シリーズを手がけられた村山吉隆氏が、2024年2月6日に亡くなった。
ご冥福をお祈りします。
「藪の中」(黒澤明の映画では「羅生門」)に代表されるような、「人間はひとつの出来事からひとつの真実を導くことができない」というテーマを私が初めて体験したのが、「幻想水滸伝3」だった。
物語序盤、ある一族の族長が暗殺される事件が発生するのだが、プレイヤーが最初に選択する陣営によって、その出来事の描写が大きく変わる。
加害側(とされる)陣営の視点では、族長暗殺の描写はなく、突然あらぬ疑いをかけられるように感じるし、
被害側陣営の視点では、実際に敵対勢力の主要人物が自陣に攻め入ってくる防衛戦が展開される、、、。
このエピソードの結論としては、第三勢力による介入によって両者の紛争を仕組まれていたという話になるのだが、このような、さまざまな視点を(キャラクターを)用意して、群像劇を展開することにかけて、「幻想水滸伝」シリーズは同世代のゲームの中で一つ抜きん出ていたのではないかと思う。
また、架空の歴史描写、時間の流れについても、よく作り込まれていたように思う。
幻想水滸伝では1〜5までナンバリングタイトルがリリースされているが、すべて同じ時空を共有している。
それぞれ、主となるエリアや時代が違うのだが、ゆるやかにつながりがあり、1で出てきたキャラクターが2や3に出てくるなどがある。
また、作品を超えて伏線が回収されることも多く、3のルックの描写や、4のテッドの登場に涙したシリーズファンも多いのではないだろうか。
※余談だが、2023年末から現在にかけて、私が最もはまり込んでいるのが「葬送のフリーレン」だ。時間軸の扱いが巧みで、長寿であるエルフのフリーレンを軸に、①見習いの弟子時代、②勇者一行として旅する時代を、③師匠として旅する現在から、ちょこちょこと思い出すような形で描写される。
幻想水滸伝シリーズは、横山光輝「三国志」を愛し、最高のドラマシリーズとして「ゲーム・オブ・スローンズ」を挙げるような私の好みの形成にたいへん大きな影響を与えてくれたんだろうなと思う。
お疲れ様でした。
ゆっくりお休みください。